ブログ・ふたりぱぱにお越しいただきありがとうございます。今日は毎日更新している息子くんへの手紙シリーズではなく、スウェーデンでのふたりぱぱ生活を送る中で感じたことをお伝えする不定期更新コラム。今日、ちょっとした出来事があったので、その思いを書き留めておこうと思います。
ゲイの語学学校あるある
先日、火曜日は教会(スウェーデン国教会)に言っているとお伝えしたが、今日も火曜日ということで行ってきた。この教会では、移民・難民を含む、海外から来た人を対象に様々なアクティビティを提供したり、スウェーデン語を学ぶ手助けをしてくれる集まりがある。今、僕はビザの関係上、政府が提供する語学学習プログラムにまだ参加できないので、こちらでスウェーデン語を学んだりしている。
この教会では教会に勤めている方だけではなく、たくさんのボランティアの方がその相手をしてくださるのだが、今日僕に教えてくれた方は、おそらく70代の女性。他のボランティアの方もだいたい同じような年代の女性が多い様子。
その勉強の時間の合間には、お茶(フィーカ)の時間もあり、その時間はまた別の方たちとも一緒にテーブルを囲み、世間話をしたりして、その会話の中からスウェーデン語を学んだりもできる。
今日はそんなとき、僕がなぜこの北スウェーデンの地にいるのか、という話になった。スウェーデンの人は英語を話す方がとても多いので、今までは英語でその理由を伝えたりしていたのだが、今日はそれも練習と思って、ものすごいスローペースではあるが、単語を一つ一つ区切りながら、スウェーデン語で伝えた。
“Min man är från Luleå. Vi bodde i London innan. Jag kom hit med honom och son.”
私の夫はここルレオ出身です。私たちは以前ロンドンに住んでいました。彼と息子と一緒に来ました。
すると、スウェーデン語を教えてくれていた方の一人が、
「そこは、man (夫)じゃなくてfru(妻)。honom(彼と)じゃなくて、henne(彼女と)ですよ。」
と優しく教えてくださるわけで、そりゃそうなるか、と思っていたら、同じテーブルに座っていた他の方で、僕の事情を知ってる人が、素早くそしてさりげなく、
「彼には夫がいて、ふたりで今子どもを育てているんですよ」
と、助け舟を出してくださった。言われた方も、ほんの一瞬の考える間をおいたあと「あぁ、そーお」と理解してくださり、何事もなかったかのように、会話は続いた。
これに似たことはロンドンで通っていた語学学校でもあった。その土地の新しい言語を学びはじめたばかりの人がそう言えば、その人が間違えてると思うことが多いだろう。
ゲイとして感じるイギリスとスウェーデンの肌感覚の違い
もちろんロンドンでもオープンリーゲイであることが、何も問題にならなかった。ただ、ここスウェーデンほうが、安心感は格段に高い。もう一度言うが、今日ここで起きたのは、キリスト教の教会でのことであり、70代以上の方が相手だ。
以前ロンドンに住んでいたとき、高齢者施設でボランティアをしていたことがあったが、そのときは、70代の方相手に、自分がゲイだということを最後まで言えなかったことを覚えている。結婚指輪をしているのをちゃかされたときには、「妻がいる」と言っていた。
もしかしたら僕自身の慣れの問題だったのかもしれないけれど、イギリスでの同性婚の法制化は意外と遅く2014年だったし(ボランティアをしていた時期はその前)、合法化されたと言っても、英国国教会は同性婚の挙式の受け入れを強制しないという条件付き。そういった知識が、なんとなく全てを開けっぴろげに言えるという環境ではないと、僕に思わせたのかもしれない。
その一方で、スウェーデン国教会は結婚の平等に関してとてもオープンであるし、(補足参照)、リカと僕は結婚を宗教婚、つまり教会では行わなかったが、息子の洗礼式は教会で執り行っていただいたし、息子と歩いた初めてのプライドパレードも、教会のグループに混ぜていただいた。
→洗礼式という伝統と、ゲイパパのいるモダンファミリー、
→人口7万人都市が伝える、プライドパレードの意義
同じヨーロッパといえども、国をうつることによって、ゲイとして生きること、またゲイパパとして生きること、その肌感覚みたいなものが変わってきたんだなと感じたりしている。
スウェーデンとトットちゃんの「みんな一緒」
息子が生まれ半年が過ぎ、その時間とほぼ同じだけこのスウェーデンという国で過ごしたことになる。まだまだこの国の政治・経済や、暮らしについて、知らないことも多く、わかったふうなことはいえないけれど、日々の暮らしの中で、その住みやすさを感じてきてはいるかもしれない。
住みやすさ、というか、ゲイだとかゲイパパとして暮らすそのイメージがしやすくなったと言った方が正確かもしれない。ゲイだからだとか、ゲイパパだからということが、どうでもいいというか、今日のようなことがない限り、普段はすっかり忘れてしまっていたりする。若い頃は、ゲイというのは特別な人種だと思い込んでた時期もあった僕だけれど。
そんなふうに感じられるのも、この国の人権だとか平等だとかが進んでいて…と言ってしまうと、自分でもつかみどころがなくなってしまうと、最近感じるようになった。しかしそのかわりに、いつもふと思い出す言葉がある。
僕が尊敬してやまない俳優・黒柳徹子さんの著書「窓際のトットちゃん」の中に出てくるトモエ学園。戦前に東京にあったこの学園は、障害があるお子さんも多く通われていて、そういった子を特別に助けるわけじゃないんだよということで、校長の小林宗作先生がいつも言っていた言葉。それが….
「みんな一緒だよ。一緒にやるんだよ」
人を助けるというのはもちろん、素晴らしいことだけれど、ときに助ける側と助けられる側に線を引いてしまうときがある。それが行き過ぎると、そこに上下関係ができてしまうときもある。助けるという気持ちよりも、みんな一緒にやる、という気持ちでいれば、できるときに・できる人が・できるだけ、なにかをやればよくて、だれも引けめを感じる必要がなくなる。
スウェーデンという国は、人々の意識の中に、この小林先生の言葉に近いものがある気がする、と言ったら、言い過ぎだろうか。それはまた残り半年ここで過ごす毎日の中で見ていくことにしたい。
今はまだ、ここではスウェーデン語を教えてもらってばかりの身の僕ではあるけれど、なにかできることがあれば、みんな一緒にできればいいなと、ちょっと考えている。
補足:スウェーデンでの婚姻と挙式
2009 年 4 月 1 日、スウェーデン国会は、性別に中立な婚姻を認める婚姻や関係制度に関する 改正法を成立させた。この法律は、同年 5 月1日から施行。
スウェーデンでは、法的な婚姻の要件となる挙式権限を有する宗教団体は 2 種類あ る。まず、スウェーデン国教会(ただし、2000 年に王家および国家との完全な分離が なされ、非国教化された)、もう 1 つは「スウェーデン国教以外の宗教団体の挙式権限 に関する法律」で特に認められている教団である。これらの団体の牧師や僧侶が挙式権限を持つ挙式執行者とされる。このような宗教団体の執行者のほか、 地方裁判所判事と県により挙式権限を与えられた者が挙式執行者とされる。判事や県 の指名する挙式執行者による結婚式を「市民婚」と呼んでいる。
出典: http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/legis/23902/02390207.pdf