僕が「ちんちんのないお父さん」を読んで、痛みと愛を感じたワケ。

僕が「ちんちんのないお父さん」を読んで、痛みと愛を感じたワケ。

今日はずっと書きたいと思っていたことをやっと書くことにする。ある本の感想文になるのだが、それを読んだのは今年の3月、日本に一時帰国しているときのことだった。宿泊先の湯舟の中に漬かりながら一気に読み終えた本だ。

 

その後、その本について書き留めておきたいと思いながら、なかなか書き出せずにいた。今思えば、きっと自分の中でうまく言葉にできないことが多く、そのままの状態でその本について書くことを憚られたためだ。しかし、2018年が終わる前に書かなきゃなと、重い腰を上げた。

 

そのタイトルは、「ちんちんのないお父さん」。川崎和真さんが書かれた本。川崎さんは女性として生まれたが、のちに自分の本来の性別に気づき、男性へと性別移行をされたで、本の中ではご自身でGID(性同一性障害)と説明されている。現在は結婚をされ、ふたりのお子さんもいる。

 

 


その痛みと、自身の無知

 

この本を読み終えた時のはじめの感想は、「痛い!」だった。実際のところ、読み終えたときの感想というよりも、読んでる途中から、ずっと痛かった。自分の中でどこが、そして何が痛いのかわからないけれど、とても痛みを感じたのはたしかだ。それは筆者の思惑ではなかったかもしれないが、彼の正直でストレートな文章を読むことで、自動的に読み手である僕にその痛みが伝わってきたのだろうか。

 

読み終えてから半年以上たち、時間をおいたことで、その痛みの素みたいなものが分かってきた。それはみっつ。ひとつ目は、本来の自分の性別の体を手に入れるために行う数々の手術の記述。二つ目はそれらの手術の難しさに伴う落胆と心の痛み。そして三つ目は、本来の自分を取り戻していくなかで生じる、喜びの痛み、みたいなもの。

 

ほんの少しだけ種類の違うそれぞれの痛み。あなたがこれを読んだ時同じように感じるかはわからないが、僕がこれらの痛みを感じたのにはひとつの理由がある。それは、いかに自分が無知であったかということを突きつけられたからだ。

 

僕は普段ブログを書くときなども、LGBTQという言葉を使ったりする。日本でもここ5年ほどでその言葉の認知度は急激に上がったと感じている。しかしながら、LGBTQと十把一絡げにされた言葉の裏で、LとGとBとTとQでは、その特性や考え方、そして社会の中での生きづらさなどが全く違うということも、知識としては頭に入っているつもりだった。しかしこの本はそんな理屈で理解しようとしていた頭を、ぶっとばしてくれたような気がする。

 

かといって、これで彼の気持ちがすべてわかったなどと言えるわけではない。実際この本を読みながら、「どうして? どうしてそこまでして、その体を手に入れたいのだろうか?」と自問し続けずにはいられなかった。恥ずかしながら、そう思ってしまっていた。きっとそれは、ジェンダー(社会的性別)と自分のカラダが一致しているという、当たり前のことを、僕自身が当たり前にしてしまっていたからかもしれない。そして、そんな自分の無知さに気づかされ、そのことによって自らに痛みを感じたのかもしれない。

 

思春期以降、自分はゲイであるかもしれないという不安にさいなまれてはきたが、クラスでは男子と女子に分けられることや、病院で出す保険証に書かれている性別に特別な違和感を覚えることはなかったし、公共の場でトイレに行っても、そのたびにまざまざと自分の性別とは何かを突きつけられることはなかった。そして自分の体にくっついているもの、もしくは逆にあるべきなのについていないもの、そしておきるはずのない生理現象によって伴う心の痛みというものに、鈍感だった。

 

いま一度言うが、この本を読んだだけでGID(性同一性障害)の人たちの苦悩を理解した、と言えるわけがない。ただ、これをきっかけに自分の無知さに気づくことだけはできたのかなとは思う。

 

 


精子提供、家族、そして愛

 

と、ここまで「痛み」についてばかりお話ししてきてしまったが、もちろんそればかりが書かれているわけではない。冒頭の第1章では、精子提供を受け、妻の美保さんが妊娠・出産し、家族になるまでの経緯も書かれている。このブログで僕らが息子を授かったその経緯を書いているのと同じように。またその理由も、極めて共感できるもの。僕もこのブログを書いたきっかけは、子供を持ち育てると言うことを、たくさんの人に伝えたいと言う思いだ。(くわしくははじめての方へを参照)

 

また作者の子どもに対する思い、愛情、不安、優しさ、様々な感情を垣間見ることができた。僕自身、息子を授かって以降、家族について、そして愛について考えることが多くなった。置かれている状況は違えど、筆者の思いを読むことで改めて自らの胸の内に光を当ててもらったような気がする。

 

そしてまた、自分自身との共通点を勝手に見出していたのかもしれない。僕らと具体的な方法は違えど、第三者が関わる生殖補助医療によって子どもを授かった筆者とその家族、そして僕と僕の家族、それらの部分で共感する部分も多かった。

 

そしてそれと同時に、生殖補助医療を介して子供を授かろうが、自然妊娠で授かろうが、子どもに向けるまなざしというのは、親になった人間からすると大きく違わないのだ、という以前から考えていたことに、自信をつけてもらった気もする。

 

筆者とその家族は、周囲からはいわゆる「普通の家族」と思われているそうだ。父親がいて母親がいて子供がいる。父親が、もと女性だったとは知られていないらしい。それでもなお、自らの経験をしたため発信していく姿は、似たような経験や思いを持つ人たちに届くことによって、彼らがどれだけ勇気づけられることだろうと思わずにはいられない。そのことを思うと、この本をこのブログで紹介せずにはいられなかった。

 

 


痛みの先にあった、生きている証

 

生きるということは、痛みを伴うものなのかもしれない。それはストレートだろうがLGBTQであろうがみな同じだ。もちろん人によってその痛みの大きさは違うものだし、その大きさは他人と比べられるものではない(またその逆の幸せの尺度も然り)。しかし人はその痛みを抱えながらも、未来を見つめ、希望を持ち、自らの意志で自らの幸せを選び取っていこうとする。その道のりのなかでその人にとっての価値というものが見いだされていくものなのかもしれない。

 

当たり前のことをアタリマエと思わず、いつの間にか与えられた「普通」を常に疑い、自分にとって大切なものを見出していくのは簡単なことではないかもしれない。「星の王子さま」に出てくるキツネの言葉を借りれば、『本当に大切なものは、目には見えないもの』なのだ。しかし不可能に思えるようなことでも、それに向かって突き進んでいくその勇気ある道のり自体が、その人の生きている証になるのだ、ということを思い知らされたそんな本であったと思う。

 

ぜひ皆さんにも、手に取って読んでいただきたい本の1つ。おすすめです。

 


「ちんちんのないお父さん」川崎和真 著
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