第6話 ロンドンが考える家族のカタチ – モダンファミリー。

第6話 ロンドンが考える家族のカタチ – モダンファミリー。

 


あなたにとって家族の定義とは?

子どもを持つかもしれないという気持ちができてきた2012年の夏、ここロンドンにあるテートブリテンという美術館が主催した、ひとつのアートワークショップに参加した。

同年12月に予定されたイベントに向けて、半年をかけ、アート作品をデザインしたり、演劇のメソッドを使いパフォーマンスを作っていった。そのイベントで来場者に向けて問いかけるテーマはこういうものだった。

“What does family mean to you?”
(あなたにとって家族の意味とはなんですか?)

LGBTのひとの中には、家族というものへの意味や価値を見出せない方も中にはいるかもしれない。

もちろん家族との関係性に悩むかどうかはストレートだろうが LGBTだろうがみな少なからずあるのだと思うのだが、LGBTだと、それを相談したり共感できる人が、特に若いうちにはなかなか知り合うことができないのは、社会の中でマイノリティであることによる不都合だと思う。

LGBTであることで起こる親子の確執、結婚できないことや、子どもが持てないこと、家族を築けないことで、家族を築くことへの希望を捨ててしまうこともあるだろう。もしくは考えないようにしているといったほうがしっくりくる方もいるかもしれない。

今じゃ、そういうことに悩んでいたかどうかも忘れかけてしまっているが、僕もそんな時期があった。

しかしこのワークショップに参加したことで、家族というものの認識が変わり、子どもを持とうか迷っていた僕の背中を押してくれた、ひとつのきっかけになった。

今回は『ロンドンが考える新しい家族のカタチ』と題し、今週はそのアートワークショップについてと、それによって僕がどのように子どもを持つことに積極的になっていったかを、そして来週はそこで出逢った方に言われて背中を押された一言を、2週に分けてご紹介していきたいと思う。

 


ロンドンの多様性が生みだす”モダンファミリー”とは?

このワークショップでは演劇のメソッドを使い、自分たちが無意識に抱いている家族への思いや、自分の経験、家族のカタチという抽象的なものを、身体や物を使って作品として目に見えるようにしていった。

半年ほどのプロセスだったが、自分たちの経験をシェアしていく中で、作品の軸となるものが見えてきた。それは伝統的な家族のカタチと、これから来る(もしくは既に来ている)時代の家族のカタチ、モダンファミリーだ。

日本であれば、家族といえば日本人同士の男女のカップルで子どもがいる人が『普通』とか『伝統的』だと呼ばれるんだろう。国際結婚は未だに珍しいとかいう感覚があると思う。

しかし多文化主義のここロンドンではその方がマイノリティーである。実際、このワークショップの参加者や運営の方、また他のアーティストの方の中で、イギリス人のパートナーがいるイギリス人というのは完全にゼロだった。

そして、ロンドンは同性同士で結婚やパートナーシップを結んでいる人も全く珍しくないし、シングルファザーやシングルマザーの家族や、養子や里親制度を利用し養育をする家族も学校にいると、このワークショップに参加していた小学生の子どもを持つママさんが教えてくれた。

また、このワークショップの参加者の中に独居の高齢者の方も何人かいたが、遠くに住んでいて会いに来ない息子や娘よりも、近くに住んでいるボランティアの方や友達のほうが、いまや私の家族だという話も聞いた。

現代のロンドンで家族を語る際、同性カップルや、国際結婚の家族など、家族のカタチや意味といってもひとくくりにはできない多様性がある。

作品を作る過程で、来場者に『家族の意味とはなにか?』を問いながらも、伝統的な家族と、それと対比するように、現代の家族 – モダンファミリーを提示していくことを軸に創作は進んでいった。

日本だったら『普通』や『伝統的』と呼ばれる決まった型から外れていた場合、家族ととらえてくれるだろうか。東京ならまだしも、田舎の方じゃシングルマザーは「片親だから…」などと未だに言われるのだろうか。僕らのようなゲイカップルふたりは家族と認められないのだろうか。

そんなことを頭に浮かべながら、ワークショップは進んでいくのだった。

 


家族のいる場所、それは昔も今も変わらない

このワークショップで幾つかのアート作品を作り上げたのだが、家族を象徴するものとして僕らはテーブルというものを選んだ。

それは幅広い世代の参加者、どこの国出身の人間にとっても当てはまる、ある共通の概念だった。それを僕らはこう呼んだ。

“Where There is a Table, There is a Family”
(テーブルのあるところ、家族あり)

どんな家族でも、食卓としてのテーブルがありそれを囲む。国や地域によってはテーブルの形が違ったり、それがテーブルじゃない場合もあるが、家族が集まる場所という概念が普遍的なものとして受けとめてもらえるのではないか、と考えたのだ。

僕らは種類の違ういくつかのテーブルをデザイン、作成し、それを舞台として様々な家族のカタチを演劇の手法を用い、身体を使って表現していった。

そこには、男女で子どもを抱える姿もあれば、同性同士で愛し合う姿、お互いに憎み合う姿、家族の中で孤立する様、そして家族でお祝いをする姿。どれも家族の一場面を切り取ったイメージ。それぞれカタチは違えども、そこにテーブルがあり、家族があった。

ある日、ぼくはこのテーブルの模型を作ったりしていたのだが、その作業中にこんなことを考えていた。

『家族』と聞いて、自分の頭の中に浮かぶ姿 – 男親と女親、そしてその子ども – という固定観念が、今までは頭の中にこびりついていたことに気づかされた。その固定観念がゲイとして家族を築いていくことへの不安を作り上げていたのかもしれないと。

しかしそれに気づくと、凝り固まった考え方をやめ、この模型をつくるように、自分なりのテーブルを作っていけばいいのではないかと思うようになった。

食事を共にし成長し、笑顔や喜びを共有し、しかし時に衝突や争いになり、逆に寂しい思いをすることもある場所。家族という愛を感じられる場所でありながらも、関係が近すぎるゆえに時に衝突してしまったりする場所。

それは伝統的と言われる家族だろうが、モダンファミリーだろうが変わらないことだ。そしてそれはイギリスでも日本でも変わらないと信じている。

あなたの記憶にあるテーブルはどんなものだっただろうか?

そしてあなたはこれからどんなテーブルを作っていくのだろうか?

 


いのちをつなぐ場所としての家族

また別の作品として、ファミリーツリーと題した高さ5メートルを超える巨大なウィンドチャイムを作った。ファミリーツリーとは英語で『家系図』という意味だ。

ワークショップのはじめのころ、誰かが『ファミリーツリーを書いてみないか』という提案をしたのがきっかけだった。

普段、そんなふうに家系図を書くことなんてない。由緒ある家庭でもあるまいしそんなこと気にしたこともなかった。しかし書いてみるとなかなか面白い。

参加者みんなでそれを見せ合いながら、話をしていると誰かがふとこんな事を言った。

「これをもっと調べていくと、おじいちゃんのおじいちゃんとかおばあちゃんのおばあちゃんとか、ものすごい人の数が上に向かって広がっていくんだろうね。」

そう、僕らは気づいた。僕らが今ここにいるのは膨大な数の人たちが過去にいてその人たちが出会いや別れを繰り返し、生命(いのち)をつないでいった結果の1つなんだということに。

しかし生命をつなぐといっても、血のつながりのことだけを言っているのではない。

人間は進化の過程で、家族という共同体を作ることによって、ほかの動物に比べ長い期間子どもを守り育てることを選んできた。それが知識や文化、生きる知恵をのちの世代に伝える効果的な方法だった。

養子だったり里親だったり、血は繋がっていなくとも、その知識や文化、生きる知恵を次の世代に繋げていく、それも生命を繋ぐことだと言えないだろうか?

何世代にもわたる生命の継承があって今の私達がここにいる。世代を超えた繋がれた家族、それを表現するために、僕らはスケールの大きいウィンドチャイムに家系図を重ね合わせ、音を奏でることにしたのだ。

子孫を残すというのは動物の本能の1つであるが、”人間”の本能として見ると家族を築くことが組み込まれているように思う。

ストレートで生まれようがLGBTとして生まれようが、人間が家族を持ちたいというのはとっても自然なことだ。もちろん中にはそうでない人もいるかもしれない。ただ僕自身は、自らの家族を築いていきたいと自然に思ったのだ。

完成した巨大なウィンドチャイムとその周りで走り回る子どもたちを見ながら、自分が子どもを持ち家族を築きたいと思っていることが自然で、リカと僕が子どもと歩いている姿が、自然と思い浮かぶようになっていった。

 


 

つづきはこちら

第7話 ゲイだって親になれると、背中を押してくれた一言


 

 

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