スウェーデンのひいおばあちゃんから学んだ、日本風差別

こんにちはみっつんです。いつも『ふたりぱぱ日記』を読んでいただきありがとうございます。こちら北スウェーデンからお送りしています。

 

今日は、僕らの息子くんから見て、ひいおばあちゃんの妹さんの家に行ってきました。調べたらちゃんと呼び名があって、曾祖叔母(そうそしゅくぼ)と呼ぶらしいです。でもなじみがないので、ここではひいおばあちゃんと呼ばせてもらいます。

 

今は夏の休暇シーズンなので、彼らの子どもや孫たちも何人か集まっていて、そこに僕ら親子三人おじゃましたというわけです。息子くんのお披露目もかねて。

 

 

ひいおばあちゃんはひいおじいちゃんとふたりでまだまだご健在。おふたりとも90歳前後らしいのですが、耳がちょっと悪い以外は元気にしゃきしゃきとふたりで生活しています。認知症の『に』の字もないくらい、人の名前もはっきり覚えているし、政治の話題で喧々諤々議論しています。

 

僕らに子どもができたということは、前から聞いていたようで、僕らの息子くんをみるなりあやしてくれたり、日差しよけのパラソルを用意してくださったりと、大歓迎。

 

もちろん、息子くんの話題にもたくさんなります。

 

「今何ヶ月だっけ?」

「◯ヶ月だよー。」

「よく眠る? よく食べる?」

「うん、昨晩なんて8時間寝たよ。」

「産まれたとき、何グラムだった?」

「だいたい3,000ぐらいだったかな」

「昔は布おむつだったけど、今は紙おむつねー」

「そう、紙の方が楽だよね、高いけど」

「アメリカで産まれたんだって? どこの州?」

「◯◯州だよ」

「なんでそこだったの?」

「代理母さんがもともと住んでるとこだからね」

「いいひとだった?」

「うん、とっても」

「ところで、今は仕事どうしてるの?」

「ふたりで父親休暇とってる。」

「今の時代はいいわねー」

 

 

なんて感じ。

 

いやいや、さりげなく会話にあるけど、これ日本だったらちょっと考えられないなって思ったんですよ。

 

ようは大正とか昭和初期生まれのひいおばあちゃんが、自分のひ孫がゲイで外国人と同性婚して、代理母出産で産まれた子どもを連れてきた、ってはなしをさらっとしてる。

 


 

 

あとからきいたら、このひいおじいちゃんは昔政治家もしていたらしく、その妻であるひいおばあちゃんも、その政党の女性の権利を向上させる集まりとかの活動をしていたらしい。

 

もちろん今は現役じゃないけれど、常に変化する時代の流れや政治に関して、今も敏感に情報をしいれたりしているというのが、他の会話からもわかってくる。そんな方達だからこそ、ゲイが子どもを育てているということは、もう別段特別なことではないのかもしれない。

 

スウェーデンで過ごすこういった日常の中で感じるのは、今の生活が日本でも同じようにできただろうか、ということ。

 

ごく稀に、日本にはLGBTに対する差別はない、という人がいるけれど、それは僕は違うと思う。日本の差別というのは欧米のようにあからさまに目に見える差別じゃないからそう言うのだろうけど。

 

日本の差別は、無視するというかたちの差別。それは無知であったり、知ろうとしないという言葉でもあてはまるかもしれない。

 

僕自身も日本で育ち30年は暮らしたから、そんな日本が悪いとか、欧米をコピーすべきだ、みたいな、わかったふうなことは言うつもりはない。

 

けれど、自分の好きになった人が同性だったから家族に紹介できないとか、同性カップルだから子どもを持ちたいという希望すら言えない空気。それはやっぱり社会が作り出したものだと思う。そしてそれは日本らしい差別だと思う。

 

このひいおばあちゃんとの会話はあかるい光となって、そんな日本風差別を陰として浮きだたせてくれた気がした。

 


 

 

日本にいたとき、僕自身もゲイであることを理由に差別をされた、という実感はなかった。ただ、しらずしらずのうちに隠さなきゃいけないってなって、隠してただけ。それは差別だと思わなかっただけ。差別じゃないと思い込まされてたとも言えるかもしれない。

 

ただここで言っておきたいのが、スウェーデンでは代理母出産にだれしも賛成って言ってるんじゃないんです。フェミニズムの観点から反対するひともいます。ただ、ちゃんとその議論をする土壌ができているということが言いたいんです。隠れなくてもいいから。

 

結婚して、子どもができて、それが当たり前とは思わないけど、それが僕らの日常になっていってそれが社会の中に溶け込んでいる。賛成するひとも反対するひともいるけれど、それは、存在を無視されていないという社会。

 

『差別はだめ』と誰かから教わる他人事のようなものではなく、なぜだめなのか、から考えて議論がかわされ、それが社会の財産となっていく。

 

 

そんなふうに日本もこれからなるのかなぁ、なんて思ったりした、1日でした。

 

 


 

今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。

ではまた!